ボクの原点

大切なことをすべて教えてくれた
駄菓子屋
『ババヤ』のおばちゃんに捧ぐ‥

言えなかった、ありがとうと共に‥
      
                 
「ババヤ」が空き地になった

かつて、毎日通った店無き跡地を見た時。
ボクの少年時代は終わった‥


「ババヤ」とは。
ボクの地元、江戸より続くリアルな東京下町エリア、台東区・駒形にあった駄菓子屋。
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家から徒歩2〜3分の場所にあり、正式名称は『小島商店』といった。
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しかし、その名で呼ぶ者は皆無であり、地元の子供達、そう、田原・済美・精華小学校出身者達には、誰に教わった訳でもなし、代々「ババヤ」と言う愛称が引き継がれていった

ボクが物心ついた昭和58年(1983年)頃に、おばちゃんはすでに『ババヤのおばちゃん』だった。

初めて一人で買物したのも、公園や友達の家に行く際の補給基地になったのも「ババヤ」だった。


他校生との縄張り争いが勃発した際は、お互いの生徒達が「ババヤは俺達の小学校のモノ(本拠地)だ〜!」と言い合いになった(笑)

「店の中でケンカしたなら、店の中で仲直り!」

縄張り争いを繰り広げた近隣小学校の同世代の生徒達とは、おばちゃんに口酸っぱく言われた「ババヤのルール」により、なんだかんだで仲良くなった。

このルールは、世代を超えて地元の子供達にだけ伝わっていく『不文律の掟』だった。

こんにちは
ありがとう
ごめんなさい
「この三つができれば大丈夫。勉強できなくても大丈夫。」

おばちゃんが良く言っていた生きていく上で大切な事は、社会に出てから改めてその通りだったと気づいた。

多くの悲しみや負の連鎖の多くは、この三つの事が出来なかった事に端を発しているのではなかろうか?とさえ思う。

こんにちは(挨拶)。
ありがとう(感謝)。
ごめんなさい(謝意)。
この三つ。
当たり前のことすらできない大人が増えてしまった現代日本を、関東大震災の前年生まれ※のおばちゃんが見たなら、どう思うのであろう?と思いを馳せる‥
※うる覚えです。ご存じの方いらっしゃいましたら連絡頂きたく。

小学生高学年になる頃、世はバブル崩壊前夜。
メガネのおっさん全てが成金に見えた。

多くの大人達は金銭的余裕を享受し、多くの子供達もまたその恩恵として任天堂『ファミリーコンピューター』を与えられた。

バブルの異常な熱気はスーパーマリオやジャンプ黄金世代の名作漫画のアゲアゲな熱気に重なり、大人も子供も何事もコンティニュー可能だと錯覚した。


地上げからのマンション建設ラッシュbyバブルの狂乱は、昭和の面影と地域社会を丸ごと背負い投げした‥
そして、新たなマンション住民を擁した地域社会は従来の住民同士の絆を完全にはコンティニューできなかった・・・

子供を通じてかろうじて地域を繋ぎとめる最前線に躍り出た駄菓子屋も、その重要性を認知されぬままバブルの余韻に飲み込まれていった。
事実、バブル期の地上げラッシュで廃業を余儀なくされた駄菓子屋よりバブル崩壊後に人知れず無くなっていった駄菓子屋の方が多いと後に気づく。

「ババヤ」もそうだった・・・・

思春期に徐々に声変わりしていくが如く、中学入学以降徐々に「ババヤ」に足を向けなくなった。
そこに然したる理由なんてなかった。

今にしてみたら、虫の知らせだったのかもしれない・・・

祖母・祖母・祖父と3年連続で大切な人を亡くした高校生になったボクが久しぶりに行った「ババヤ」。平成7年(1995年)のこと。
ただおばちゃんに会いたかった。
元気でいて欲しかった

駄菓子の種類が全盛期の半分くらいになっていて、少し白髪が増えたおばちゃん。
「久しぶり」と言ったボクへ向けたおばちゃんの笑顔と「ババヤ」の匂いだけは、昔のままだった。

「近頃は来る子も減っちゃって‥」

おばちゃんの口から初めて愚痴らしき言葉を聞いた日が、ボクがおばちゃんに会った最後の日だった‥‥

その約1ヶ月後。
「ババヤ」は取り壊される事になる。
雑草が茫茫と生い茂る「ババヤ」無き、その思い出深い場所で立ち尽くした17歳の冬。

永遠に続くと思っていた、ボクの少年時代は終わった。
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(当代一の傑物・マツコ・デラックスさんにも伝わった駄菓子屋文化の貴重な側面)

青年時代は過ぎ去り、中年に差し掛かった令和3年。

おばちゃんに教えてもらったこと。

それを大切に守りながら、駄菓子屋の意義・役割・素晴らしさを世界に発信する事をライフワークとしている。

駄菓子屋文化を日本遺産にすると言う、荒れたオフロードを今日も走り続けているボクの原点、駄菓子屋「ババヤ」。

今でも駄菓子屋を訪れる度、駄菓子屋の匂いと雰囲気に包まれる度、おばちゃんの事を思い出す。

言えなかった『ありがとう』の言葉と共に‥